もうすぐ子供が産まれるってのになぜ夫は頼りないのか
そんな自己紹介もいよいよ冗談では無くなる日が近づいてきた。後数日で第一子が誕生しようとしているのだ。
思えばこの30数年間、自分の人生に意味があるのだろうかと鼻くそをほじりながら自問自答を繰り返してきた。その答えなのかは分からないが、少なくともこんな私にも『責任』という大きな二文字がちらつき出したのである。
そもそも私は今まで責任とは無縁の生活を続けてきた。当然仕事には責任が付きまとうが、そういった社会的な責任ではなく親になるという本能的な責任の話である。
鼻くそをほじりながら適当に生きてきた私に、子供を育てることはできるのであろうか。当然妻と一緒に協力しながら育てるのだが、妻ばかりに負担はかけたくない。
現在、我が家は夫である私が仕事に出て妻は専業主婦をしている。今の生活では子育てに関しては確実に妻に負担がかかる訳だが、仕事を理由に家事や育児を押し付けたくはない。
では鼻くそをほじることしかできない私に一体何ができるのであろうか。
私にできること
さすがにこれはhorisegawaジョークだが、チープなポップミュージックに『僕には歌を歌うことしかできない』みたいな歌詞が使い回されているのを良く見かける。
そんな訳ないだろう。
息もすることができるし、いい大人なのだからトイレだって一人でできる筈である。そもそも歌を歌って少なからず売れたのであれば印税も入るではないか。
甘ったれたことを言うんじゃない。
話を戻すが、私に何ができるのかを真剣に考えてみることにする。
鼻くそほじることしかできひんのとちゃうんかい
金を稼ぐ
金を稼ぐというとどうしても難しいイメージを持つが、考え方ひとつで簡単なことに変わる。
そもそも外に出て狩猟することによって生きていた狩猟民族の『獲物』が『金』に変わっただけなのである。
狩りは当然ながら狩れない日もある。しかし、少なくとも現代社会では労働すればその対価として金を受け取れる。
ただ、受け取る対価は一律ではない。当然ながら会社の規模や個人の能力によって歴然とした差が出るのである。
大手企業に入り、安定して高収入を得ている人達は『大規模狩猟集団』に所属しており、獲物となる動物も『マンモス』なのであろう。
我々のような貧困層は『中規模狩猟集団』に所属しており、獲物も『シカなどの草食動物』といったところだろう。
狩猟民族が台頭していた時代はどの集団に所属するかは運による要素が大きいと思うが、現代社会では『学歴』などといった要素が多分に絡んでくるのである。
今からでも私にできることは、狩猟ばかりに目を向けるのではなく、『農耕』や『牧畜』といった安定的に食料を得ることのできるノウハウが必要なのだ。
そのツールの一つとしてブログが存在するのだが、残念なことに現状はとても副業と言える状態ではない。
当然ながら手紙や瓦版と違い、インターネットを通して全世界に発信しているのできっとどこかにチャンスは落ちている筈だ。
オムツ替え
どうも話が脱線してしまいがちだが、子育てに限って言えば『オムツ替え』は私にもできるのではないだろうか。
但し仕事中は当然ながら家にいない為、オムツ替えは妻がメインになるのが明白である。私ができるのは帰宅してからと休みの日のみである。
これではもしもテレビ局が『夫の育児』について街頭インタビューしていたところ、たまたま通りがかった私にインタビューしたとしても、私は『メインでオムツ替えを担当している』とは到底言えない訳である。
私がインタビュアーに言えるのは『ちょっと急いでいるので』といった断り文句だけであろう。
私が胸を張って言えること
家事において私が胸を張って言えることは、何があるのだろうか。冷静に考えると、結局私は世間の夫同様『何もしていない』のではないだろうか。
風呂掃除は私がしているが、そんなのは胸を張って言うことでもない。こんなことをいちいち言っていると『褒めて欲しい』という見返りを期待している様な印象さえ受ける。
私が胸を張って言えること…果たして一体何があるのだろうか。
たまに洗濯をするのだが、これもスイッチ一つで洗濯・乾燥までできてしまう優れ物を購入したので労力といったら洗剤(ジェルボール)を入れる動作とスイッチを押す指に込める力(一回)だけである。
じゃあ一体何ができるんだ
ここで考え方を整理してみるとする。そもそも『何もできない』と考えている時点で思考が停止しているのではないか。
何もできないのではなく、何ができるかが重要なのだ。
そうだ、今思い出したが私がメインでしていることがある。
猫のトイレの世話である。
これだけは私がメインでやっている。猫の糞尿処理に関しては誇れるものがある。
我が家では猫を三匹飼育しているが、1日放置しただけでなかなかの量の糞尿が生成される。
私がその糞尿を処理するのだが、奴らは処理している側から私を見下す様に嘲笑いながらまた新たな糞尿を生成する。
恐らく猫どもはわざとやっているのであろう。
まとめ
結局、私はこの記事を通して何が伝えたかったのであろうか。それは当の本人が分かっていないのだから、誰にも分からないのである。
しかし一つだけ言えることは、我が子よどうか無事に元気に生まれてきて欲しいということだけである。